私の好きな日本画家:髙山辰雄(上)
- 戸田淳也

- 3月4日
- 読了時間: 3分
更新日:3月10日
髙山辰雄(展)から受け続ける感銘
たいして考えもせずこの文章を書くことを引き受けてしまったのだが、なんでも自由に書いても良いと言われると案外難しいものだ。
あらためて書く事でもないが、展覧会というものはその規模に関わらず一期一会である。同一の内容であっても、展示品が並べられる会場、展示構成によって、展示品の見え方、展示内容から鑑賞者が受け取る印象というものは大きく変わってくる。私としては気になった展覧会へは出来るだけ足を運ぶように心がけてはいるが前期、中期、後期と会期がわかれていると、会期ごとに見に行くのは面倒、もとい経済的、時間的負担が大きいので、その場合は時間に余裕のあるタイミングで一度だけ見に行くことが多い。

2024年に前期、後期とそれぞれの会期ごとに見に行った展覧会がある。滋賀県守山市にある佐川美術館で開催されていた日本画家「髙山辰雄展」だ。私の住まい京都東山から美術館までは車でなら1時間もかからない距離だが(現在は伏見区に居住)あいにく私は車を持っていないため、電車とバスを乗り継いで行った。京都駅から滋賀県の堅田駅まで行き、そこから先はバスに乗るのだが、バスの運行本数が少なく美術館へ到着するまでにはなかなか時間がかかった。
私はアメリカの短期大学を卒業した21歳のときから日本画を始めた。日本画を描いていた祖父母のアトリエで日本画関連の雑誌や画集をめくると、花や人物など同一の題材、似たような表現で描かれた作品が多く、日本画の好きな作品や、お気に入りの作家がなかなか見当たらないなかで、髙山辰雄の作品だけは違って見えた。彼の作品を画集で見たとき琴線に触れるものがあった。私にとって髙山辰雄とは日本画を描くようになって最初に好きになった作家であり、それ以後も現在まで好きでい続けている稀有な作家なのだ。いくら交通に不便な場所であっても、今回の展覧会は初めから前後期見に行くつもりでいた。
髙山辰雄が生涯にわたり出品を続けた日展に、私が初めて入選したのは日本画を始めて3年目の大学院1年生の時だった(短期大学卒業後に学部の3年生へ編入したため)。すでに髙山辰雄は亡くなっており、自作が同一会場で並ぶことも、懇親会等で髙山辰雄本人にお目にかかれる機会もなかった。当時、私はまだ日本画とはどういうもので、日展を始め各公募団体についての知識もなかった。ただ周りの学生や、大学の教師陣が日展に出品していたので、なんとなく私も日展に出品を決めたように思う。
以後、日展への出品を重ねていくなかで、さまざまな作家から影響を受けた。その多くが、構図の取り方、色彩の組み合わせ、発色、題材の選定など表面的な部分であることが多かった。その時々の私が目指す表現や題材によって、影響を受ける作家や、惹かれる作品は変わっていったが、髙山辰雄という存在とその作品は私のなかで通奏低音のように、日本画、絵画、芸術とはどうあるべきかと考えることを促してきた。残念ながら関西では髙山辰雄の作品が展示される機会も少なく、実際に作品と対峙することもほとんど出来なかった。ただ時と共に家には彼の画集が増え、画集を通し彼の世界観に浸る時間が長くなっていった。
(続く)


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