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私の好きな日本画家:髙山辰雄(下)

髙山辰雄(作品)から受け続ける感銘



さて実際の展覧会の感想だが、非常に充実した内容であった。作品の内容とは別に、絵が描かれている支持体に関して少しふれておこうと思う。会場全体を通して絹本に描かれた作品が多いことに驚かされた。これまで画集などで髙山辰雄の制作風景を写真で見たことがあったのだが、いずれもイーゼルに立てかけられたパネルに向かって絵筆を持って写っていたため、絵が描かれている支持体はパネルに貼った紙一択だと勝手に思い込んでいた。加えて髙山辰雄が日展3山と言われ人気を博した戦後の日本画は、西洋絵画への接近、厚塗り表現が特に進められた時代でもあり、岩絵の具の厚塗りを可能とするために開発された雲肌麻紙が日本画のスタンダードな支持体となっていった時代でもある。余談だが、私が大学で日本画を学んでいた当時は、岩絵の具による厚塗り表現はかなり下火となってはいたが、教師陣の中には、画面を触って「絵の具の量がまだまだ足りない」というようなことを言う方もいたくらい、岩絵の具の量というものが作品の評価基準の一つであったように思う。そして大学で与えられた支持体は雲肌麻紙のみであった。

 

今回、髙山辰雄の作品をまとめて見ることが出来、表現として絹本が選択されていたのだろうと感じた。目の粗いガーゼを思い出してもらえれば理解しやすいかと思うが、絹本は紙とは違い、縦糸と横糸で織られているために糸と糸との間にわずかな隙間が生じる。通常は絵の具を塗り重ねていくと、絹目の隙間は絵の具によって目が詰まっていき、紙と同じような隙間のない支持体として使用出来るのだが、髙山辰雄の場合は絹目を意図的に詰め切ってはいないように感じた。髙山辰雄の作品では、絵の具によって絹目が詰まっている部分、さらに絹目が詰まった上から絵の具を塗り重ねられている部分に加え、絹目に絵の具が入り込んではいるが目が詰まり切っていない部分と、詰まり切っていないが故に裏側の裏打ち紙が透けて見えていることが確認できた。いくつもの層が複雑に入り乱れ、響きあい奥深い独特の絵画空間を構成しているのだ。絹本での日本画制作と聞くと、紙に比べて暈しや、滲みの美しさを生かした、比較的細かな粒子の絵の具による薄塗表現こそが最良なもとのいう認識が一般的ではあるが、髙山辰雄が提示したような比較的に粗い粒子を併用した、絹目を意識させる描法もまだまだこれから検討可能な表現であると思った。

 

この文章を書いている途中で、岐阜にある祖父母のアトリエに行く機会があった。2人の死後にいくらか整理された本棚で美術雑誌『三彩』のNo.170を見つけ、髙山辰雄の特集が組まれていたので京都の自宅に持ち帰り読むことにした。雑誌が発売されたのが1964年であり、髙山辰雄の画業でいうと、日本芸術院賞を受賞した1960年から、芸術選奨文部大臣賞を受賞した1965年の間、まさに日本の芸術界の頂点に上り詰めていった時期に書かれた髙山辰雄論にしては短い文章ながらなかなか厳しい視点の内容であった。執筆者の宮川虎雄は、髙山辰雄の仕事を認めつつも「近年のかれの作画が、古典的観想的になり、ややともすると封鎖性をおびてきているのは、どういうことなのであろうか。すくなくとも、そこには、かつての柔軟な試行は姿を消し、日本画というものの宿命的な対象把握の仕方に遡行し、固着しているようにみえる」(40頁)とし、高山辰雄の作品における実世界のリアリティの希薄さ、東洋絵画的な心象風景への逃避を鋭く批判していた。その後の髙山辰雄の仕事を知っている我々としては、宮川の批判が杞憂であったことを知っているわけだが、私は宮川の美術史家としての矜持を強く感じた。はたして今日の日本画批評で日本画の将来を憂える心情と、批評の場において批評対象の作家、作品に厳しく対決する覚悟をもった批評家がどれほどいるのだろうか。私が敬愛する美術評論家の田中日佐夫が『日本画 繚乱の季節』(1983)の冒頭で触れていた批評家による批評精神の欠如ともつながる問題だがそれについてはこれ以上ここでは触れないでおこうと思う。

 

長々と展覧会とは関係ないことまで書いてしまったが、展覧会を見た後でも、髙山辰雄は変わらず私にとっては特別な作家であり、今後も彼の作品や文章を通して、自らの制作と向き合っていきたいと思っている。

(完)


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